昭和四十五年六月二十四日 朝の御理解
御理解 第三十七節 「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなむものであろうぞ。」
何故一生しなければならないか、ひとつの事を体得する迄には修行がいると、体得したらもう後はそれでいいじゃないかと、一生涯をかけて修行せんならん、聞いただけでも疲れるような気がしますけれども、神様の実在を信じれれるようになる、次には神様のお働きを限りないものとして分からして頂く。その神様の実在が分かる。神様がござるという事が信心によって分かる。おかげを通して分かる。分かったら、その神様の働きそのものをいよいよ無尽蔵というか、無限大に表していくというところ、限りがない神様の働きを表していけれる、又それを受けていけれる、というところにです、焦点が例えば置かれて参りますと、とにかく、一生かかってでも修行させてもらわねばおられない事になり、それが段々神様を表していく事の上にも具体的に表していく事が出来る事になってまいります。楽しみというか喜びというものがね、出来てまいりますから、なる程、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろう、という事になってくる。只、本を読むというのじゃない。いわゆる、勉強するというのである。勉強すればする程、今まで分からなかった学問の世界というものが広がってくる。そのようなもの。
信心させて頂いても、その修行というものがこれでよい、これで済んだという事がない限りがない、何故かというと限りのないおかげな取り組んで行け又、その限りのないおかげを表して行けれるから、それが楽しいのである。又は、それが有り難いのである。そういう意味で神様の働きを表していくと、いけれる修行を私共はさせて頂かねばならん。他に何にもない、金光様の信心の修行というのはそれなんです。神様をいよいよ顕していけれる、というところに修行の楽しさがある訳です。
そこで神様なんです。それは形もなからなければ声や姿もない。いわゆる声もなければ姿もないというのです。けれども昔から信心によっていろいろな奇跡的なおかげを受けたという、いわゆる雑信仰とでも申しましょうか、それこそ、たくさんの人が信心によってそれを体験してきた。
云うなら神様とか、仏様とかいう対象が非常にその目に見えない声は聞こえないけれどもですねえ、まあ云うならスーパーマン的な存在ですよねぇ。出来ん事はないという風にみんなが言うてきた。まさかの時に神頼みをする、人間知恵力ができない、もうどうにも出来ない。そこで神様に又は仏様に、と云うて縋る。その拝ませてもらう神様は、例えばどのような不思議な事でも、云うなら奇跡を表して下さる事の出来れるものとしてです、みんなが拝む訳です。
信心して徳を受けるというのも、やはりそういう例えば、信心して霊験の顕を不思議とは云うまじきものとおっしゃるけれども、本当にやはり不思議と思わなければおられない程しのおかげを、例えば今日の御理解のところから頂きますと修行によって表していく事が出来る。例えば、お道の信心と云うても、まだ百十年位の宗教ですけれど、その間にたくさんな人がおかげを受けてきた中にも、お徳を受けられたという方達の話を聞きますと、実に普通から云うたら、荒唐無稽そんな馬鹿な、というようなおかげを表しておられる、実際・・・
そういう神様をです、私共もやはりそのように表して行けれる為に信心の修行をする。しかもこれは悲しい時とか頼まなならん時というのではなくて、いつもそういう働きを感じさせて頂けれる生活、おかげでも例えば限りがあるというのでなくて、限りない、云うなら無尽蔵のおかげを頂いていくという事。そこで、そういうそんなら無尽蔵のおかげの頂ける事の為に私共は、どのような修行させて頂いたらよいかという事になる訳ですねえ。
いつでしたでしょうか、私が横八のお知らせを頂いた事がある。『∞』こういう風な・・・これは無限大という記号だそうですねえ、限りがないという記号。私はその訳を知らなかった。けれども私は、それを見てから感じた。∞ 丁度
腹がよじ切れるごとある風に感じたんです。例えば腹が立つとか情けない思いをするとか、もうそれこそ、もう腹がよじ切れる程に苦しい難儀なところをです、私共がね、じっと辛抱しぬかせて頂いて、神様にお縋りをするところからお徳が受けられる、限りないおかげに触れていく事が出来る、というようなお話をした。 その後に、秋永先生がここでお取次をされてから、「先生、今日の御理解の横八というのは、無限大という記号なのですよ。」という事を教えてもらった。「そうですか、それで今朝の御理解がいよいよはっきりしてきますね。」と、云うた事でした。
私共がもう限りないおかげを頂いていく事の為には、例えば自然に起きてくる様々な難儀と云うか問題をです、それをもう本当に合掌して受けていく、元気な心で受けていくという受け方、しかもそういう難儀を感ずる時です。
最近私が、この前の月次祭からいろいろと皆さんに聞いて頂いたように、このようにそれこそ腹がよじ切れるように苦しい思いをする時に親神様も又、これと同じ苦しみをして下さってあるんだと、それを私は昨日はそういう、例えば、氏子と共に喜び、氏子と共に苦しんで下さる神様の事を、私は昨日は「重乃井子別れ」のお芝居の例をもって皆さんに聞いて頂いた。
私、昨日の朝からですねえ『自然坊(じねんぼう)』という事を朝から頂くのです。どういう事だろうかと私は思いよって、夕べの御理解を頂いたのです。あの「重乃井子別れ」に出て参ります子供ですねえ。あれは自然藷(じねんしょ)三吉と云うのです。自然藷というのは、山芋という意味らしい、ですからそういうあだ名がつく程に汚かったんでしょうねえ、三吉というのは・・そうでしょうまあだ十かそこそこで、馬追いをする位ですから、それこそ母親である重乃井が後でその嘆きの中で申しますように、それこそ手は松かさのようにしておる、それこそ猿のような手をしておると云うて嘆きます。ですから、三吉と重乃井は間違いのない親子であるけれども、親子と知らなかった間は、まあ何と汚い小僧だろうかと思うたに違いはない、というのです。ところがそれがです、持っておるお守りさんやら何かの事からです、このが自分の子供であると分かった途端に、もう汚いもなければ何にもない、只親子の情だけである。という事。それは知らない間はね、小僧のくせに何と生意気な小僧じゃろうかとか・・・それは生意気ですよねえ、子供のくせにタバコどもふかしているのですから、そして云うなら
双六をふって博打を打ったりしているんですから。しかも、その身なりと云うたらそれこそ、山から猿が下りてきたような格好をしておるのですから。重乃井は、
お姫様のお乳母として豪華絢爛な衣装をして、それこそ大変な違いがある訳ですよねえ、親子であって・・・けれどもそれが、ひとたび自分の子であるという事が分かったところからです、もうそれこそ抱きしめた上にも抱きしめて、離したくない程しの親の情というものが・・・けれども別れなければならない、その親の都合の為に生き別れをしていかねばならない、という悲しいお芝居なんですが。
私共が天地の親神様との間も、知らない間はその通り、神様は例えば氏子と云うておって下さってあっても、片一方が親でもなからなければ子でもない、いや神様なんかあるもんかというような場合には、それと同じような事になるんだと
いう事を昨日申しました。初めてそこで親であり子であるという事が分かる、いわゆる神様が実在を信ずる事が出来るようになる、そこから親と子との、ひとつの情念というものが交流してくるようになる。
そこで苦しいなら苦しゅうございますけれどもです、この苦しみと同じ思い、いやそれにも数倍いた苦しみを親にも味あわせておるんだというところに、只神様相すみませんという他にはないという事。それで、もう人間関係であろうが経済関係であろうが、様々な難儀という難儀をです、もう、ここのところの私は一点と云うか、その事でおかげを受けられるという事を昨日申しました。
どんなに涙が出る程、はがゆい思いをする時であっても、こういうはがゆい思いを私自身が親にさせておるんだと実感したらです、神様相すみませんが出来るならば、もうその場でたちどころに私の心の中のはがゆいものは、たちどころに
消えてなくなる、という御理解でしたが、これは事実そうなんですよ。
どんなに腹立たしい事が起こっても、それこそ横八じゃないけれども腹がねじれる程に腹が立つ事があっても、このような思いで親神様に自分が腹を立たしておるような事がありはせんかと、その事を詫びていくという信心になりゃ、もうたちどころにそれはおかげ受けられる、むしろ有り難いとお礼申し上げる事になる。
昨日、お月次祭が済みましてから、正義さんが前講をつとめておりました。その事で申しておりましたが「今日のお説教頂かせてもらいよってから、なる程、私は土木という仕事をしとりますから、もう降る照ると云う事が直接一番関係致しますけれども、この事に限ってだけは不平を云わん、不足を云わんという立て前で今日までおかげを受けてきとるというお話をしてきた。そしたら昨日のお説教頂き終わってから感じた事は私はその事に不平を云わん、不足を云わんというだけじゃない、その事にお礼を申し上げねばならない事に気がついた。」と云っております。夕べ・・・
例えば腹の立って、泣こうごと腹の立つ事であっても親神様にそういう苦しい
思いをさせておるという事を自分の心の中につきとめたらです、神様相すみませんとお詫びをするより他ない。こうして私の神様に対するお粗末、御無礼と云うか腹を立てさせるような、はがゆい思いをさせるような、痛い痒い思いをさせるような思いをさせておるんだという事をです、悟らせて頂いたらその事を通してお礼を申し上げねばおられない事になってくる。
昨日も私、あちらへ下がっとりましたら、高橋さんと久保山さんが、「先生、今日教務所から通知が来ている事ご承知でしょうか。」「いいえ、私はまだ見とらん、どういう事ですか。」と云うた。この頃からここの経理の事が一年に一回
ずつ報告をなさらなければなりません。その中に豊美の婚礼の時の費用が五百万円とあった。向こうでは、五十万の間違いと思われたらしいのです。そこで、いやそれは、やはり五百万いっとりますと、電話で御返事したらしい。それから折り返し昨日は手紙が来ている訳です、教務所から・・・それには、その費用はどこから出たかと、あれは教会長の給与の中から支払ったようにして下さいという通知が来ている訳です。私の給与の中から娘の婚礼の事したと云うたら、その五百万円に対して二百万円位税金がかかるそうですね。私がそれだけの給料をもろうておるという事になれば・・・とんでもない話なんです。だから事実は事実としてです、例えば、それは私にはそんならその日暮らしですから、私がお金を持っているはずはないんです。ですけれども、娘が嫁入るといや御信者さん方が心配して、一年も前からその為の委員会が出来て、その為の積み立てをして下さって、例えば五百万円もかかったけれども一銭の借金をする事がいらずに出来たという事実があるのです。だから本当な事をそげん云うたらいいじゃないの、親先生はお金はいっちょん持っちゃない。それを今頃給料にせねばならないならば、
それだけでも、なあにもならん、二百万円という税金を払わにゃならん。それが
事実ならいいけれども、事実じゃないじゃないか。只、私がいつも云うように必要なものが必要に応じて頂けれるというのが、私の生き方なのだ。その日暮らしであっても・・・・・一万円なら一万円のその日暮らしが出来とるけん、さあ今度は突発的な事が起こって、五百万もいるような事が起こったらです、その五百万円がそこに表れておかなければ本当の事じゃない、として皆さんにも聞いてももらっておるし私自身がそのおかげを受けてきているんです。何処から別に寄付をあおいだ訳でもなければ、まあ娘のはなむけなどは、それは何十万かありまたでしょうけれどもです、やっぱり神様がですねえ、必要に応じておかげを下さっておるのです。私の給料からしたのではない。けれども事務的にはそうしなければならないという事を通知してきた。そんなら、事務的にそうしなければならないならば、五百万円という給料を私がとっておるから、その中からしたという事になれば嘘の事になってくる。本当にもろうておるならそのを払うのもいいでしょう。けれども実際は、私は給料もらっておる訳ではない。
だから教会の行事として、親先生はいっちょんお金持ってないから信者達が集まってこのような、いうならば婚礼の費用は出来上がったんだという事をいうてもです、それは通用しないという訳なんです。その事を神様にお礼申させて頂いておりましたらね、『玄人と素人の違い』と神様はおっしゃるんです。相手が玄人なら、素晴らしいねえ合楽という所は本当にそうだろうと合点がいくのです。
皆さんなら合点がいくのです。事実そうですから。ところがこれが教務所とか他所の人に云うたら、そげな馬鹿な事があるもんかという訳なんです。まあしかし
ちょっとしたスーパーマン的なおかげですよねえ、私が頂いておるおかげは・・
もうこれは、金銭だけの事ではありません。全ての事がそうなのです。必要なものが必要に応じて頂けておるんだと。
そういうね、例えばおかげをお互いが頂いていけれる道なのだ。困る事はひとつもない。その時その時に立ち行くおかげ。そういう例えばおかげを表していけれる信心ですからこそ、例えば一生が修行であっても又、まあだもっともっと素晴らしいおかげをですね、表していけれるという事がです、日々の信心体験させて頂けるのですから楽しい、なる程一生が修行であっても又、有り難い。
それにはね、私共がまず有るやら無いやら分からんけれども、その有るやら無いやら分からん神様をまず頂かなければならない。しかも、その神様の働きというものを私共が知らなければならない。それを知る為に修行がいるのです。その神様の働き知るひとつの手だてとして、最近私が云っておる、そんなら今日の御理解で云うと、無限大、いわゆる体がよじれるような事があっても、そこを辛抱しぬいていくだけでなく、その事に対してお礼を申し上げる程しの事、その事に対してお詫びをもうし上げる程しの事。神様、すいません、私がこのように苦しんでおりますが、神様は親なればこそですけれど、子供の苦しみ以上の苦しみを、
親様がしておって下さるんだという事に気がつかせて頂いて、お詫びをしていくようなおかげが頂けれれば、いうならば、たちどころにおかげが受けられるという事を申しておる訳でございます。
そのような、いわゆる表していき方、例えば自分の経済的な事がです今、貧乏しておる者がそういう気持ちになったらもう億万長者になるという意味じゃない。
けれどもね、そこにね、ちゃんと立ち行く道が開かれてきて、それが段々おかげ頂いていくうちに、なる程、億万長者にもなれるおかげが頂けれる事が例えば信念されてくるようになる。この調子でいけばおかげが受けられる、この調子でいけば絶対健康になれる。それを例えば、痛い痒いといったような事ならばです、
その気になれば、もうその場で痛いがなくなり痒いが無くなる程しのおかげが受けられるんだ。それは親と子としての思いが交流するからだと、まあ云っておる訳ですねえ。そういう信心、そういう修行がです、神様が分かる、その神様の働きをです、表していく事になるのだと、神様の働きを表していくという意味に於いては、まだ様々な信心がありましょう。けれども私がここ十日余り云うておる事は、その事なのです。親として子としての続柄、関係というものはね、神様との関係というものを本当に親子の情をもって感じられる信心。
なる程、親様だなあ親神様だなあと、そしてその場その場をおかげを頂いていきながらです、いわゆる無尽蔵、限りのないおかげの糸口をほぐしていく事ができる。そして、素人では分からない程しにです、おかげが受けられるようになってくる。これは金銭だけの事ではない、全ての事がです、私共がその場その場に於いてです、必要なものが必要に応じ、いわゆる素晴らしいタイミングの中にです、おかげの頂いていけれる、そういう素晴らしいタイミングと云うか必要なものが必要に応じて、と云ったようなおかげを表していけれる道に出ら無ければ、一生が修行という事がおっくうになってくると思うのですね。
なる程、こういうおかげが受けられるのだから、これをもっともっと表していけれるからこそ、それこそ一生修行させて頂いてもいといません。いやむしろその事が有り難うなってくる、楽しゅうなってくるというようなおかげを頂ける。 今日の三十七節を今日はそのような意味に於いて聞いて頂いた。どうぞ、いよいよ・・・・・
私、昨日の朝から頂いておった『自然坊』という事がどういう事だろうかと分からなかったけれど、昨夜の「重乃井子別れ」の御理解を頂いてです、はあ、あれは自然藷の三吉と云うから、その事から自然坊というのは私の事だなと思うたんです。重乃井というのは、重った井戸の井と書いてありますから、天地の親神様と金光大神の重ったお徳によってです、自然藷ですね、いうなら山芋のように汚い私、泥だらけの程しの私。もうそれこそ泥田んぼの中にあるような私、そういう私を昨日は朝から教えて下さっておった。又、私自身もそう思っておる。だから例えば、今日の限りないおかげにつながる事の為には、まず自分を知れ、そして自分の見苦しさ汚さというものをぎりぎり分かっていけ、いわゆる自然藷の三吉にならにゃいかんという事ですよね。そこにね、重乃井が表れる、そしてそれこそ親子の情というものが、あのお芝居の中に表れてくるようにです、あれは
オーバーじゃない、あれは本当なんだ、親子の情ってあんなものなのだ。そういう情がです、私共と天地の親神様の間に通うようにならせて頂いたら、私のような汚い者でもおかげが頂き続ける事が出来ると云うことなんです。
ですから、自分自身がまず自然藷の三吉である自覚です、汚い自分です、横着な自分です、実意のない私なのです。そういう私をぎりぎり見極めるところからね、私は親子の本当の対面というか名乗りといったようなものが、上げられるようなおかげになってくるというような事を今日のこの『一生が修行じゃ』というこの御理解から併せて頂きたいと思います。どうぞ。